プロフィール

神谷 修平

かみたに しゅうへい

1986年(昭和61年)11月19日生まれ

学歴
平成21年3月 関西学院文学部 卒業
職歴
平成21年4月 株式会社 岡墨光堂 入社

幼少期

・神戸市にて生まれました。

・商店街の近くに家があったので、赤ちゃんの時から商店街の皆さんに子守りをしてもらい、地元の多くのみなさんに育てていただきました。

・絵を描くことや粘土遊びが大好きで、手を使って何か作り出すと、何時間ももくもくと、時間を忘れて没頭していました。一方で、外に出るとやんちゃな子供だったようで、土管の上で遊んでいて、そこから落ちてなんと頭を三針縫ったこともあったようです。

・空手と水泳とお絵かき教室に通っていました。

・ショベルカーやダンプカーが好きで、よく祖母や母に工事現場に連れて行ってもらいました。今でも見つけると息子と一緒に見てしまいます。

・おばあちゃんっ子でおばあちゃんと過ごすことが多かったです。おばあちゃんと一緒に観ていた『男はつらいよ』シリーズが大好きになり、寅さんのファンになりました。

小学校

・1995年1月17日阪神淡路大震災に被災。自宅が全焼しました。思い出や大切にしていたもの、すべてを一瞬にして失いました。
昨日まで当たり前のようにあった、目の前の家が瓦礫の山になり、活気あふれる商店街の景色が一瞬にして焼野原に変わった姿をみて、子供ながら、言葉を失うほどのショックを受けました。当時、小学2年生でした。

その時の経験から、「一度失われたものは、もう戻ってこないのだ」ということを強く痛感し、日々のすべての事柄について今までよりも大切にしなければいけないと思いました。この時の気持ちが、文化財の修復という仕事を選び、現在の京都の文化や伝統を未来に遺したいという想いに繋がっています。

・避難所で生活したこともあり、その時にボランティアの方に優しくしていただいたり、自衛隊の方々が用意してくれたお風呂に入りに行ったり、多くの人達に支えられて生活していました。

・しばらく小学校にも通えなかったけれど、全国の方々から文房具や生活用品が送られてきたおかげで、避難所でも絵をかいたり日記をつけたりすることができました。今思い出しても感謝しかありません。

・小学校がある程度復旧して、登校できるようになると、下校の時にボランティアの方々が運動場で作ってくれた炊き出しを食べることが、1番の楽しみでした。まだ寒い時期だったので、校庭で立ったまま食べた豚汁の味が今でも忘れられません。

・地震で被災したことによって、多くの人たちに助けていただき、多くのご恩を受けました。
震災の経験は「将来、世のため人のためになれるようなことがしたい。」と思い始めるきっかけでもありました。

・小学校に入っても、絵を描くことや何か作ることが大好きで図画工作の時間が大好きでした。絵や、紙粘土で作った作品が表彰されたこともあり、その時は本当に嬉しかったです。

・集会委員会に入っていて、朝の全校朝礼などの進行をしていました。この時は人前に出て話をすることに全く緊張しない子供でした。

・逆上がりが苦手で、悔しくて毎日こっそり1人で練習しました。
苦手なことや、できないことを何とか克服するために、努力することが好きでした。

・クラブ活動は、卓球とバドミントン。今でも、温泉に行って卓球台があると嬉しくなって、必ずしてしまいます。負けず嫌いなので、常に真剣勝負です。

・この頃に「スラムダンク」「ドラゴンボール」という漫画にはまりました。週刊少年ジャンプと月刊コロコロコミックが好きでした。『スラムダンク』の影響で、中学はバスケットボール部に入ると誓いました。

・初めてお小遣いで買ったカセットテープは、槇原敬之の『どんなときも』、2つ目は『もう恋なんてしないなんて』。ずっと口ずさんでいました。

・お笑い番組が好きで『ごっつええ感じ』を毎週見ていました。ダウンタウンさんは今でも大ファンです。

・周りの友達と一緒にゲームボーイのポケットモンスターに熱中していました。

中学時代

・中学生の時にDragonash が好きになりました。最初に聞いた時に衝撃を受けました。
今もファンで、武道館までライブを観に行ったこともあります。挫けそうな時、落ち込んだ時に元気をもらっています。

・念願だったバスケットボール部に入部しました。
ハードな練習についていくのに必死で、突き指や捻挫などを繰り返す日々。
少しでも部活についていけるように、筋トレや体の事を自分なりに勉強して、自宅で自分なりのトレーニングを続けました。

・中学の時も共通して成績の良かった科目は美術でした。作ることよりも、作ったものを見てくれた人が喜ぶ顔を見るのが好きでした。
この頃にテレビで、美術品の修復をする職業があるということを知ってから、美術品の修復という仕事に大変興味を持ちました。

高校時代

・高校3年間は朝から晩までバスケ漬けの日々。毎朝5時半に起きて朝練に行きました。母はさらに早く起きて、おいしいお弁当を作ってくれました。今でも感謝しています。土日も練習や試合。お正月休みすらなく、1年365日中360日くらいは部活動に励んでいました。

・高校3年で念願のレギュラーになり、多くの試合に出場しました。得点を取る花形のプレーよりも、チームのために泥臭く体を張ったプレーが得意であり、好きでした。
そして、誰よりもあきらめが悪く最後までボールを追い続けるタイプでした。
自分が必死に追いかけてとったボールをパスして、それが得点に繋がることが何よりの喜びで、チームプレーだからこそ、周りの役立ちたいといつも考えていました。
部活を通して、チームのために自分は何ができるかを常に考えること、最後まであきらめないことの大切さを学びました。
部活で出会った友人は、家族よりも一緒にいる時間が多かったこともあり、一生涯の友人になりました。今でも定期的に集まっては、当時の話で何時間も盛り上がっています。

・元々体育は得意ではなかったですが、6年間バスケットボールを続けたおかげで、マラソンでは学年トップ10に入るほどに体力もつきました。
ただ1つ心残りなのは、当時ちょっとした反抗期で、バスケットの試合に家族が観に来るのが恥ずかしくて拒んでしまったことです。唯一、高校最後の試合にだけ家族を呼んだら、とても喜んでくれたので、特に毎日お弁当を作ってくれた母親には、もう少し活躍する姿を見てもらいたかったなと後悔しました。

大学時代

・関西学院大学文学部に入学。好きだった美術を学ぶため、美術学科の評判の良いこの大学を選びました。

・受験勉強に関しては、あまり要領がよいタイプではなかったので、スケジュールを立てコツコツと毎日何回も復習しながら覚えていきました。何かを始めるとき、時間はかかるが、コツコツと我慢強く計画を立てて忍耐強く取り組み、自分が納得するまで向き合いたい、という不器用な人間かもしれません。

・ゼミではゼミのリーダーに任命されました。選んでくれた教授曰く、「一番人が良さそうで、人に好かれそうで、厄介ごとや頼まれごとを頼んでも断らなさそう。」という理由(笑)。しかし、チームをまとめるという役職をいただいたのはとても良い経験になりました。

・バスケットボールのクラブチームにも所属しましたが、その他に広告研究会という団体にも所属しました。この団体の一番大きな活動は大学の学祭の時に、1000人規模のイベントを実施すること。チームで協力して大きなイベントを作り上げていくことにやりがいを感じ、その中で意見が違う人とも話し合いながらより良いものにしていくという大変貴重な経験をしました。

・大学の卒業旅行では、中学の頃からずっと観たかったアメリカのバスケットボールを観戦しにロサンゼルスを訪れました。ロサンゼルスレイカーズというチームを観戦。ファンだったコービーブライアントという選手を間近で見た興奮は一生忘れないでしょう。バスケットボールはアメリカの3大スポーツですごい盛り上がりでした。日本のバスケットボールももう少しメジャーになってほしいと思います。

・大学時代のアルバイトで、本屋で働いたことがあります。本を読むのが好きだったので、本に囲まれた中で働けることは幸せでした。お客様の問い合わせで、知らない本と出会えることも楽しみでした。

・日本アニメーション学会が大学で開催されたときに、ゲストで『火垂るの墓』や『平成狸合戦ぽんぽこ』のジブリ作品で有名な高畑勲監督とお会いしました。ジブリ作品は全て大好きで観ていたので、その時の嬉しさは鮮明に覚えていました。

・長く続けたのは家庭教師のアルバイトでした。小学生から高校生まで幅広い層の生徒さんを担当。子供が好きで、勉強を教えることも好きだったのでバイトの日が楽しみでした。勉強嫌いの子、おしゃべりが好きな子、スポーツしている子など、様々な子どもたちと触れ合うことは、私の方が勉強になりました。勉強への取り組み方は、子どもたち一人一人に合ったものでなければいけないなと感じていました。

社会人時代

・仕事は高校生の時から興味を抱いていた、修復の世界に挑戦しようと思い、文化財が数多くある京都市の文化財の修復を行う会社に入社しました。主な仕事場は京都国立博物館です。

・国宝や重要文化財の日本美術に触れる日々。毎日緊張感を持って仕事をしました。
本や美術館、博物館で観たことのある作品に触れさせていただく機会は大変良い経験になりました。

・作業場は、ほぼ全面畳で、正座かあぐらをかいて一日中繊細な作業をすることもあり、忍耐力と精神力が磨かれました。

・神社やお寺に赴いての現地での作業もありました。冷暖房の無いところでの作業は、集中力を保つのが大変でした。

・修復の仕事でポルトガルに行く機会がありました。海外で日本と同じように作業するには、事前の準備がとても大切です。また、現地は日本と環境も違い、同じ作業でも体力の消耗が違うなど、学ぶべきことが多くありました。いつか海外で仕事がしてみたい、という思いもあったので本当に良い経験ができました。余談ですが、ポルトガルの人たちは素朴で優しい人たちが多かったです。日本人が珍しいせいか、みなさん親切にしてくれました。ご飯もおいしく、フランセジーニャ(魚の煮込み料理)やサルディーニャス・アサーダス(鰯の塩焼き)という料理にはまりました。また個人的に訪れたい国の一つです。

・寺社連続油被害事件というものが、2015年頃に関西周辺で起こり、京都でも被害がありました。寺社の国宝や重要文化財などに油などの液体が撒かれ汚損された事件です。この修復作業に私も関わりました。時間の経過や、行事や祭事、展覧会などによる使用で文化財が劣化することはありますが、このような人的な被害で京都の長年守られてきた文化財が損傷するのは、大変残念なことに思います。これから観光客がますます増え、観光資源として文化財が活用されるようになれば、海外の多くの世界遺産が落書きなどの被害が問題になっているように、京都でもそういった被害が増えるのではないかと思う出来事でした。
今後の文化財への防犯対策など、どのようにして観光と文化財の保護を両立していくべきかという現在の私の想いの始まりでもありました。

・文化財の修復は、補助金が使用されており、行政とも関係している部分が多い分野です。
ただ世界に比べるとまだまだ予算は厳しく、京都には数多くの文化財があるので、それをすべて適切に修復して保存するのは難しくなってきています。今後、観光のための活用頻度が増えることから、これから京都としてはさらなる保護の取り組みに力を入れなければならない、どうすれば守っていけるのかということを日々考えていました。

結婚と子育て、そして現在

・妻とは同じ大学出身で、大学の同窓会で出会いました。

・同窓会には社会人1年目から参加し、関西学院大学同窓会若手の会の実行委員に任命されたこともあります。その時は大学の卒業生であるお笑い芸人さん(笑い飯・哲夫さん)に司会をしていただき、関西で若手の同窓会を開催しました。

・妻には出会った当初に、あなたは政治家に向いている気がする、と何気ないタイミングで言われ驚きました。

・結婚式は、京都のカトリック河原町教会、披露宴はホテルオークラで挙げました。
披露宴では友人たちが映像作ってくれたり、出し物を考えたりしてくれて本当に心に残る日になりました。

・息子が誕生。息子誕生を機に、会社で初の男性の育児休暇を取得しました。期間は5カ月間。
息子の成長を見届けたい。少しでも一緒の時間を過ごしたい。そんな気持ちでした。周囲の声は、「そんなに長く休んで仕事大丈夫?」「いい会社やなー!」など様々。2016年度の男性の育休取得率は3.16%。日本はまだまだ諸外国と比べて取得率が低いのが現状です。

・育児は大変なこともありましたが、楽しさと多くの学びがありました。赤ちゃんと過ごすと、ごはんの準備や片付け、おむつ替え、寝かしつけが何度も繰り返され、その他に遊び相手やお散歩、お風呂などめまぐるしく用事があり、1日があっという間に過ぎていきました。
育児は、久々に初体験する機会が増えます。寝返りを打つことの大切さ、夜中に起こされるつらさ。今まで分からなかったことを、四六時中寄り添うことで身をもって体験できたことはとても良い経験だったと思います。

・子供が生まれたことで、子育てに関する市の取り組み方にも興味を抱きました。

・ちょうどその時期に京都党が政治塾を開催していました。京都の政治について、行政の取り組みについて詳しく知りたいと思い、政治塾に参加することにしました。

・政治塾で京都市政について勉強し、京都市政の問題、京都市の財政が危機的であること、これからの未来に責任ある若い世代の政治家の必要性、地域分権の推進などについて学びました。
他都市の同世代の政治家の方々も政治塾に参加されており、お話しする機会がありました。高い志を持ち、自分たちの街を少しでも良くするために活動されている姿勢に胸を打たれました。

・政治塾での講義を重ねる毎に、自分も京都の街のために何かしたい、何かしなければならないという想いが強くなってきました。
京都党のメンバーの方からも、「一緒に京都のために頑張ってくれないか?」というお誘いを受けました。

・小さな子どもがいたので、挑戦するのは難しいかもしれないと思いましたが、子供を持ったからこそ、その子供たちのために京都の未来を良くしていかなければならないという想い、子育て世代として抱える将来への不安、文化財修復師として現場の仕事の中で感じた京都の文化や伝統への危機感、そういった今の自分だからこそ、京都の未来のためにできることがあると思い、市政に挑戦する気持ちが固まりました。

・前に踏み出す勇気をくれた最大の要因は、妻が「私たちも一緒にがんばるから、あなたの気持ちを大事にして欲しい。」という一言でした。

・現在、京都党下京区支部長として活動中。可能な限り、地域の催しや、お手伝いに参加しています。